障害者の支援を行う人々に向けて、根本的な「問い」を投げかけたいと思います。

 

なぜ、障害者を支える必要があるのでしょうか?

 

当然、企業や自治体などで障害者の支援を行う人々にとっては、その仕事によって、自分の生活が支えられ、生きる糧になっているという答えもあると思います。

 

しかし、そうした生業といった枠組みから離れた場合、本来、私たちはこの問いにどう答えるのでしょうか?

 

「支援が必要とされているから」

「かわいそうだから」

「法律で定められているから」

 

色々な答えが浮かぶと思います。

 

しかし、例えば上の3つの答えと真っ向から異なることを、思想から国家政策に高めた国もあるのです。

 

かつて優生思想政策を進めた日本もそうした国の一つでした。

 

優生思想とは?

優生思想とは、遺伝的に優良とされるものを保存し、劣等な遺伝子の淘汰を考えた優生学に基づく思想であり、ダーウィンの生物学的進化論の考えを社会政策に持ち込んだ社会的ダーウィニズムの考え方だと言われています。

 

しかし、本来誰が「優良」な人間で、誰が「不良」な人間か、は遺伝子だけで決まるはずはありません。

 

そもそもある社会で「優良」と見なされる行為は、別の社会では「不良」とされるかも知れないのです。

 

また、その人の生育歴や生活環境で、どのような人生を歩むか、は変わってきます。

 

それに「優良」とか「不良」というラベルを貼るのは、ラベリングの一種であり、あくまでも一つの「価値判断」とも言えます。

ラベリングとは?

もともとは、ラベルを貼る、という意味。そこから社会学では、「逸脱の中核にあるのは、社会によって逸脱というラベルが貼られることがあるとする見方」とするラベリング理論が生まれました。社会が障害を、「劣っている」とラベリングすることで、障害者は劣った存在であるという認識が生まれ、そこから社会的排除が生まれる、とも言えます。

 

日本における優生思想

だが、この優生思想が「遺伝」という科学的な材料と結合した時、ラベリングを超えた恐ろしい政策へと「発展」してしまいます。

 

事実、日本では1996年まで存在した優生保護法の基で多くの障害者が強制不妊手術を受けさせられました。

優生保護法とは?

1948年に制定された法律であり、その第一条では「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と書かれていました。

 

この「不良な子孫の出生を防止する」ために、国はガイドラインの中で、障害者を時にだましてでも強制不妊手術をさせてよい、と指導し、優生手術が行われていました。

 

その後、1996年になってようやく優生的条項は全て削除され、母体保護法と名前も改められたのです。

 

現在では法に基づく強制不妊手術はなくなりましたが、妊婦の出産前診断、選択的人工妊娠中絶などで争点となるのは、「わが子が遺伝疾患やダウン症などの障害を持って生まれる可能性が高いと分かっていて、出産するかどうか」という問題です。

 

ではなぜ、これが問題となるのでしょうか。

 

その理由として、「障害を持って生まれてくるのは不幸だから」という価値前提があります

 

視覚と聴覚の双方に障害をもつヘレン・ケラーはかつて、「障害は不便です。でも、不幸ではありません。」と述べました。

 

だが、現在の日本社会でも「障害は不便ではなく不幸である」という価値前提があるように思えます。

 

日本の障害者たちは「障害者は不幸か?」といった問いかけに反論するように、「母よ!殺すな」と訴え続け、障害がある人の地域自立生活を求めた運動を展開してきたのです。

 

障害者は「不幸」なのか?

個々人の「幸せ」について、もちろん普遍的な一つの答えがあるわけではありません。

 

しかし、グローバライゼーションの進む資本主義社会の中にあっては、「お金をたくさん持っていること」や「〇〇ができること」という、拝金主義や能力主義、生産性向上至上主義が、強くこの社会の価値前提に結びついていると言えるのではないでしょうか。

 

それを一言で言えば、経済的効率を優先する社会とも言えます。

 

そして、経済的効率を最優先するならば、その効率の枠組みから脱落する人は、障害者だけでなく、ホームレスや認知症高齢者、引きこもりの若者なども、社会の隅に追いやられてしまいます。

 

この経済的効率を徹底的に突き詰めると、「非効率な人間の排除」という極端な思想に行き着いてしまいます。

 

これは、何が正しいか、ではなく、どのような価値に基づいて生きるのか、という価値前提を巡る問いです。

 

「科学の知」と「臨床の知」

優生思想という考え方は、科学的な知識は正しい、という「科学の知」の延長線上にあります。

 

また、経済的効率の優先とは、経済学という「科学の知」を絶対化しています。

 

そして、第二次世界大戦以後の日本社会も、この「科学の知」を最優先にする社会でした。

 

一方、この「科学の知」に対して、「臨床の知」という考え方があります。

 

哲学者の中村雄二郎氏はこの二つの知の違いを次のように述べています。

 

科学の知は、抽象的な普遍性によって、分析的に因果律に従う現実にかかわり、それを操作的に対象化するが、それに対して、臨床の知は、個々の場合や場所を重視して深層の現実にかかわり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互作用のうちに読み取り、捉える働きをする。

引用元:『臨床の知とは何か』中村雄二郎・岩波新書

 

障害者は健常者に比べて生産性が低いから、劣った存在である、という価値観。

 

これは、劣っているという「結果」を障害者という「原因」と「因果律」で「分析的」に結びつけようとする「科学の知」に基づく価値前提です。

 

一方で、「臨床の知」とは、誰が劣り、誰が優れているか、を普遍的に決められない、という価値前提です。

 

個々の障害者がどのような場所で暮らしているのか。

 

その場面や状況、あるいは支援者との相互作用の中で、その人の可能性が開かれることも、あるいは閉ざされる事もありうる、という価値前提です。

 

そして、障害者支援だけでなく、高齢者や児童支援でも、あるいは学校教育でも、対人直接支援とは、誰がやっても同じという意味での標準化や普遍化ができる「科学の知」ではなく、他でもない支援者のあなたと、支援される私の出会いという相互作用の関係性の中から生まれる、「臨床の知」なのです。

 

両者の出会い方や、双方の状況、どういう場所で出会うのか、などによって、その相互作用は変容するものです。

 

―なぜ障害者を支える必要があるのか?

 

「科学の知」なら、その問いに対して、

「〇〇障害者だから」

「〇〇病だから」

「障害支援区分6だから」

といった、「客観的な指標」を答えとして出すのでしょう。

 

しかし、「臨床の知」ならば、こう答えるのでしょう。

「そこに、支援を求める人がいるから」

と。

 

すると、最後に考えなければならないのは、『支援』とは何かという問いになります。

 

「支援」とは何か?

「支援とは何か」を考えるために、支援と一字違いの、でも支援とは対極にある「支配」について考える必要があります。

 

広辞苑では、二つの言葉をこう定義しています。

支配とは?

ある者が自分の意思・命令で他の人の思考・行為に規定・束縛を加えること。そのものの在り方を左右するほどの、強い影響力を持つこと。

支援とは?

ささえ助けること。援助すること。

 

「支配」と「支援」の違い、それは一方的な「反-対話的関係」か、双方向の「対話的関係」か、の違いと言えます。

 

「支配」関係であれば、一方が他方に圧倒的な影響力を持ち、支配される側は普通反論できません。

 

一方、支配と違う支援とは、そのような一方通行ではなく、双方向性の中での「対話」が求められます。

 

以前の記事で「臨床の知」とは、「個々の場合や場所」における「相互作用」だ、と紹介しました。

 

―「支え助ける」という関係性をもつ中で、相互に作用し、話し合いながら、関わり合う。そのような支援関係から、支える側も支えられる側も、変わりうる関係。

 

まさにそれが、支援現場という「臨床」の現場で行われていることなのです。

 

支配者か?支援者か?

そこで大事なのは、「ささえ助ける」という現場で、私たちは「支配者」か「支援者」のどちらの役割を担うか、という問いです。

 

支援する側は、支援される側を「支配」することも不可能ではありません。そしてこの「支配」関係は、「非効率な人間の排除」という価値前提とも地続きです。

 

専門性や科学的知識を振りかざして、当事者や保護者、関係者を支配・排除する立ち位置に立つことも、不可能ではありません。

 

しかし、支援関係、とは、そのような専門性や科学的知識を、支配ではなく、対話のために用いる関係です。

 

―障害のある人の思いや願い、本音を聞く。その上で、どうしたらそれが実現できるか、を共に考え、試行錯誤しながら共に探していく関係。

 

そのような関係の中で、支援という専門性を用いることができれば、私たちと当事者の間に支配関係ではなく支援関係が生まれます。

 

「支援」に正解はない

支援関係に、「これをやれば正解」という唯一の答えはありません。

 

その現場の、私たちが向き合う障害当事者と一緒に作り上げていくしかないのです。

 

それと同じように「なぜ障害者を支える必要があるのか」という問いには、唯一の答えはありません。

 

答えは、支援者であるあなたと、支援を受ける障害当事者が、臨床の現場で、一緒に考えながら、かかわり合う中で、作り上げていくしかないのです。

 

つまり、この問いは、「唯一の正解」のない問いと言えるでしょう。

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